空色帝国

ひとまずノンジャンルで。

『鋼の錬金術師』の等価交換を考える。

子どもの頃に影響を受けた少年漫画ということで、触発されて私も書いてみる。


私が取り上げたいのは荒川弘鋼の錬金術師』(ハガレン)である。ただ実のところ、読んだ当時に私がどんなことを感じていたかはあまりよく覚えていない。
ということで、現時点からの解釈がほとんどとなるが、ハガレンについて語っていきたい。


鋼の錬金術師』は、エドワード・エルリックアルフォンス・エルリックの兄弟を主人公とするダーク・ファンタジー作品である。作者は荒川弘
幼少の頃、流行病で愛する母を失った兄弟は、その類稀なる錬金術の才能をもってして母親の蘇生(人体錬成)を試みるが失敗。エドワードは右腕と左足を、アルフォンスは全身を失うこととなる。
数年後、機械の義肢を身につけたエドワードと、魂だけを全身鎧に定着させたアルフォンスは元の身体を取り戻す方法を求めて国中を旅する。その過程で、国家を揺るがす謀略に気づき、巻き込まれていく物語である。


本作におけるキーワードの1つが「等価交換」である。
錬金術は物質の性質と形状を変化させることができるが、無から有を生み出すことはできないし、例えば水を土に変えることはできない(ただし、金属→別の金属への変換等は可能)。そして、錬金術師の力量を超える錬成をすると、追加の代価として肉体を持っていかれる。
そしてこの等価交換は、作中では、錬金術の法則としてのみならず、世界の理としても、人間への教訓としても語られる。
(物語における能力の設定と教訓が一致している、そういう作品が私は好きである。わかりやすい例で言えば、友情をテーマにした作品で、トモダチとの絆がパワーに変わる作品とか。)


その等価交換の法則を破る(ように見える)アイテムが、賢者の石である。これを錬金術の触媒として用いると、未熟な錬金術師でもわずかな代価で絶大な錬成を行うことができるようになる。また、人間に埋め込んだりすることにより、人間より優れた生命体・ホムンクルスを生み出すことができる。
エルリック兄弟は初め、元の身体を取り戻すために賢者の石を追い求めるが、「賢者の石の材料は、複数人の人間の命(魂)である」ということを知ってからはこれを諦める。


等価交換というのは無から有を生み出せないことを示す法則であるので、見方によってはネガティブな制約にも思える。しかし、作中で語られる「一は全、全は一」(「私」は世界という大きな流れの中の一部であり、同時に世界のあらゆるものが「私」を作り上げている)という名言からもわかるように、等価交換とは、偏りなく調和するというポジティブなルールであるとも言える。


本作のラスボスである「お父様」は、アメストリス国民5000万人の魂を材料(犠牲)として最高の賢者の石を作り上げ、自身を神に代わる存在にしようとする。それはつまり、ひとつの個体が全リソースを収奪し、エネルギーを偏在させることを意味している。
その「お父様」を、エルリック兄弟と仲間たちが打ち破る。ハガレンとは、つまりそういう物語なのではないか。

 


私がハガレンから学んだことは、まさしくこの「世界の調和」ということである。
地球を閉鎖系として見れば、エネルギー総量は一定であるということは、現実世界においても事実である。その限りある土地・資源を人類が、そして人類の中でもさらに一握りの人間が寡占していることも。


「人は何かの犠牲なしには何も得ることができない」と最終巻の地の文は述べている。
夢の科学技術だとか、便利なアイテムだとか、必要な制度とか言われるものも、どこかで何か・誰かが犠牲になっている。
夢の化学物質フロンガスオゾン層を破壊したし、夢の建築素材アスベスト中皮腫を引き起こした。
急速な重工業の発達は公害病を引き起こし、夢のエネルギー・原子力発電は多量の放射性物質放射性廃棄物を垂れ流す。
日本で購入できる安価な海外製品は海外工場の低賃金労働に支えられているし、24時間利用できるコンビニエンスストアは店長と従業員の長時間勤務で成り立っている。
伝統的家族制度は主婦(女性)の無償労働により成立していた。日本を防衛するための在日米軍基地は地元住民の生活を圧迫している。


エルリック兄弟は幼さゆえのイノセンスから死者の蘇生を試み、無知ゆえに偽りの完全物質・賢者の石を追い求めたが、旅路の果てに真理を悟る。
私たちも、対価なき便益などという夢から覚め、人間にとって過ぎたるものを追い求めることを自制すべきなのだろう。


ただし、いたずらに犠牲を求めるのも私は嫌いである。
日本の「やさしい」右翼がよく「現在の私たちが苦労を背負うことで、将来世代が幸福になれる」とか「戦争で犠牲になった英霊たちのおかげで、今の日本がある」などと言う。
しかし、パレート最適を目指しすらしていない段階で何かを失うとしたら、それはただの無駄・浪費である。
犠牲を最小にする努力を重ねながら、対価なき便益に対しては疑いの目を向けることは矛盾しない。また、「犠牲なしに便益はない」が真であるとしても、「犠牲があったなら便益があった」が真であるとは限らないことも肝に銘じる必要がある。


ネット右翼は言う。「左翼の考える、排除や武力のない幸福論や平和論はお花畑で、我々こそが現実を見ているのだ」と。
それは現実主義(リアリズム)ではなく、ただの悲観主義(ペシミズム)と英雄主義(ヒロイズム)の混合物である。


七つの大罪が一、強欲の化身グリードは「世界の王」になることを求めたが、本当はただ、心通じあう仲間さえいれば充足していた。
七つの大罪が一、嫉妬の化身エンヴィーは人間を見下していたが、心の底では、弱き人間たちが憎しみを乗り越えて協力する姿に嫉妬していた。
等価交換では存在しないものを生み出すことはできないが、錬金術のように物の態様を変えることはできる。人々が連帯し協力しあえば、不足しているものを充足することはできる。「お父様」のように一人で完全無欠な存在にならずとも、私たちは「一は全」として、総体として発展を目指せばそれでいいのだろう。


まとまりのない文章になってしまったが、これ以上推敲する余裕がないので、これで筆を置く。
以下余談。

 


個人戦闘力としては間違いなく真のラスボスであるキング・ブラッドレイ大総統(=憤怒のホムンクルス・ラース)の発言が示唆的だなと。
「貴様一人の命と残りの数万の命とで同等の価値があると?
自惚れも大概にせよ人間
1人の命はその者1人分の価値しか無く
それ以上にもそれ以下にもならん」

これはブラッドレイ大総統への停戦の申し入れのために、自らの命を差し出すと言った最高指導者への返答であるが、
よく考えてみると、自らの生みの親である「お父様」への批判ととることもできるのであるな(「お父様」は人間ではないけども)。

「無能な働き者」はなぜダメなのか?

【はじめに】

 一般に『ゼークトの組織論』と呼ばれる有名なコピペがある。

将校には四つのタイプがある。利口、愚鈍、勤勉、怠慢である。多くの将校はそのうち二つを併せ持つ。
一つは利口で勤勉なタイプで、これは参謀将校にするべきだ。
次は愚鈍で怠慢なタイプで、これは軍人の9割にあてはまり、ルーチンワークに向いている。
利口で怠慢なタイプは高級指揮官に向いている。なぜなら確信と決断の際の図太さを持ち合わせているからだ。
もっとも避けるべきは愚かで勤勉なタイプで、このような者にはいかなる責任ある立場も与えてはならない。

 正確な出典は不明であるが、wikipediaはクルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルトの言であるとしている。本稿では、20世紀前半のドイツにおいて、軍人が軍組織を想定して述べたであろうことがおおよそわかっていれば良いので、wikipediaで十分なものとする。

 

 この『ゼークトの組織論』(以下、『組織論』とする)が長く引用され続けている理由は、「怠慢より勤勉のほうが有害である」という主張にある。勤勉は善であるという一般的な規範に反しているので、意識高い系に好まれるのである。

 私自身はこの『組織論』から特別な教訓を得てはいないが、この『組織論』に悩まされる善良なる働き者が幾らかいることを知ったので、私の解釈と批判を述べてみることにする。

 

【解釈】

  利口↔︎愚鈍、勤勉↔︎怠慢の2×2マトリクスとなっている。

 原文では「愚鈍で勤勉」がなぜ避けるべきなのか理由を書いていないので、それ以外のタイプから逆説的に理由を導くこととする。

 「愚鈍で怠慢」は、一見して良いところがない。「軍人の9割に当てはまり」とあるので、少なくとも、抜きん出た所のない凡人タイプであることは確かである。では、なぜ組織に所属することを許されているのか。

 「愚鈍で怠慢」はルーチンワーク(繰り返しの作業、手順通りの作業)に向いているとされる。つまり、「愚鈍で怠慢」は勝手に余計なことをしない点に着目され、評価されている。

 許可を取らず勝手なことや新しいことを行おうとすることを「勤勉」と呼ぶのなら、「勤勉」は現代的な規範においても悪である。であれば、ここでいう「勤勉」は全て悪である前提で、「利口で勤勉」である場合のみ例外的に許されていると理解するのが妥当であろう。

 「利口で勤勉」とは、具体的にビジネスで例えるなら「そんなこともあろうかと◯◯を発注しておきました」「△△社との交渉はもう進めてあります」「わらじを懐で温めておきました」といったものだろう。独断専行が、結果的な利益によって不問に帰されているのである。

 

 このように読み解くと、「愚鈍で勤勉」なるものの姿が明らかになる。即ち、独断専行で失敗する人間である。

 

【一般的に言われる対策】

 ここまでは色々な自己啓発本、ビジネス情報サイトでもよく言われることである。

 そして、「愚鈍で勤勉」タイプへのアドバイスもお決まりである。「報告・連絡・相談(報連相)をしっかりとすること」である。

 「愚鈍」を即座に直すことはできないので、「勤勉」=独断専行を改めよ、と言うのであろう。

 

 私も報連相をしっかり行うこと自体は良いことだと思う。しかし、この『組織論』から導くべき教訓として正しいのかどうかについては、疑問が残る。

 

【状況の特殊性】

 この『組織論』は、軍人が軍隊という組織を念頭において発言したものである。

 戦争とは、

 ⑴情報と資源が恒常的に不足する極限状態であり、最善の選択ができない

 ⑵指揮命令系統が断絶したり、頻繁に組織が再編される

 ⑶一刻を争う緊急の決断を要するが、1つの判断ミスが部隊を壊滅させうる

 という、非常に特殊な状況である。

 

 先に書いたように、『組織論』は「報連相をしない人間を問題視している」と解されることが多い。しかし、戦時は「報連相をしない」のではなく「できない」環境なのだと言える。

 ゆえに、この『組織論』の真の教訓は「報連相をしない人間を登用するな」ではなく「報連相が不可能な環境下では、無能で意欲的な人間を登用するな」なのだろうと私は考える。

 

【経営組織論への応用可能性】

 つまるところ、この『組織論』とは情報・人的ネットワークが断絶されうる状況における権限の付与について語っている。

 しかしそうなると、この『組織論』を経営組織論に応用することができるかどうかは甚だ怪しい。

 戦時中の軍隊においては、

 「将官が戦死したので、急遽佐官が指揮をとる」とか

 「司令部と連絡がとれないが、今すぐ進軍か撤退か決断しなければならない」とか

 「攻撃座標を間違えた結果、敵軍の奇襲を受け一個師団が壊滅する」ということはありえる。

 しかし現代の企業では、

 「課長が急死したので、急遽係長が職務を代行する」とか

 「本社と連絡がとれないが、今すぐ契約するかしないか決断しなければならない」とか

 「入力するデータを間違えた結果、敵対企業の奇襲を受け関西支社が壊滅する」とかは普通、ありえない。そんなことがあり得るのは日曜夜の銀行ドラマか、現実であり得るとしても超最先端のベンチャー企業など極めて僅かな例のみであろう。

 

【まとめ】

 ⑴「勤勉」の意味するところが現代の一般的な意味と異なる

 ⑵報連相をしない人間への戒めであるという解釈も正しくない

 ⑶戦争という極限状態を前提にしているので、現代の普通のビジネス、普通の社員に適用できない

 

 私が憂慮するのは、この『組織論』と冷笑主義の結びつきである。もともとこの『組織論』を語った人物に、勤勉を冷笑する目的がなかったことは明白である。

 しかし、この『組織論』が「無能な者は努力しても有害無益である」という文脈で使われる場合があることを知った。こうした物言いは問題があろうから、本稿がそうした呪詛を祓う一助になればよいと思う。

 

『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』の感想と考察

godzilla-movie.jp

ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』を視聴したので、つらつらと考察を書き出すことにする。

100%ネタバレにつき閲覧注意。

 

【本作のテーマ】

まず、ゴジラとはもともと「原水爆(実験)への警鐘」であり、怪獣ゴジラは「暴走する核エネルギー」のメタファーである。原水爆実験により目覚め、体内に原子炉を獲得し、放射能熱戦を吐く。

2016年の『シン・ゴジラ』は「暴走する核エネルギー」という要素を堅持しながらも、福島原発事故を想定し、ゴジラを制御不能に陥った原発の具現化とすることでゴジラの現代化(アップデート)に成功した。

ゴジラとは斯様なものであるがしかし、他の怪獣が参戦すると、ゴジラのこの「核エネルギーのメタファー」という要素は主たるテーマではなくなる。

複数の怪獣が暴れまわる状況にあっては人類など無力で、ゴジラが勝利することを祈りながら暴威が過ぎ去ることを待つしかない。つまり、本作のテーマは「人智を超えるものに対して私たちはどうふるまうか」=「人間中心主義・人間至上主義への反省」となる。本作はそのテーマを見事に表現している。なんといっても世界中で17体もの怪獣が目覚めて暴れているというのだ。「ゴジラを倒したこともある」さしもの米軍とてなすすべがない。予告ムービーで「人類にできることは、何もない」という台詞があったが、それが裏切られなかったので私は満足である(実際には、人類も色々やっているのだが)。

シン・ゴジラ』も本作も名作だが、このようにテーマが異なるので比べることはできない。

 

【テーマに対する4つの立場】

⑴ギドラを目覚めさせる環境テロリスト・アラン。彼は「人類こそ地球の秩序を乱す悪である。ゆえに滅んでしまえ」と考える。

モナークの古生物学者・エマ。彼女は「怪獣たちは地球のバランサーである。彼らによる破壊を受け入れることが、人類の未来を好転させることにもつながる」と考える。

モナーク生物学者・芹沢猪四郎(とモナーク幹部)。彼は「人類は怪獣たちと共存していかなければならない。彼らと友好的な関係を築いて、人類の居場所を確保するしかない」と考える。

⑷元モナークの動物学者・マーク(と軍部及びアメリカ政府)。彼は「人類と怪獣は共存できない。殺すべきだ」と考える(マークの立場は作中で変化する)。

最終的に選びとられる……というか、本作で是とされる立場は⑶であろう。ちなみに『シン・ゴジラ』でも「人類はゴジラと共存していくしかない」と主人公が述べている。

視聴者がどの立場に親近感を抱くか?という観点で見ると、⑴は普通に考えて狂っているので論外。論外というのはつまり、本作を見てエコテロリストになろうと思い立つ人とかいないので、それに対するフォローとかそういうものも何もいらないということである。

⑷の立場に親しみを覚える人が(ゴジラファンではなく社会全体としては)多いのではないかと私は思っているし、監督もそう思っているからこそ、その立場の者を本作の主人公にした上で、彼が考えを⑶寄りに改めてゆく過程を描いたのだろうと考える。これは、本作がアメリカ映画であることを考慮すれば、自国第一主義、移民排斥等を唱える現大統領及び現政権支持者への批判と読むことができる。とはいえ、何か一個の事象に対する批判ではなくて、やはり排外主義と人間中心主義一般への批判ととっておくのが良いだろう。

⑵の立場の評価は難しい。私自身、エマの思想の正確なところを掴みかねている。ただ、本作では「怪獣に破壊された土地がかえって自然豊かになったり、怪獣由来の成分で科学技術が進展したりする」ことがエピローグで示唆されており、スクラップ&ビルドのような発想に一定の理解を示すものとなっている。人類の繁栄は全て意識的かつ計画的なものであるとは限らず、偶発的な「怪我の功名」であることもある、とも言える。⑵の代表者であるエマは死亡するものの、彼女の立場は完全否定されるべきものでもない、といったところか。

 

ゴジラについて】

・審判者ゴジラ

前作(2014年)の監督は、ゴジラについてこう述べている。

「彼は疲れ切ったサムライのような存在だ。もう引退して静かに暮らしたいのだが、世の中がそうさせてくれない」と。今作も、そのキャラクターを継承しているといっていい。

本作では人類は2度、ゴジラによる審判を受けている。

1度目がゴジラとのファーストコンタクト、バミューダ海域のモナーク基地。主人公マークたちとゴジラが対面する。人類側はゴジラに向けていた武装を解除することで、敵対しない意思表示をした。ゴジラは喋りはしないが、おそらくこう言っているはずだ。

「てめーら、なにギドラ復活させてんの?バカなの?しゃーない、邪魔しないなら倒してきてやる」

2度目は、人類が誤ってオキシジェンデストロイヤーゴジラを瀕死に陥らせ、芹沢博士が命を懸けてゴジラを復帰させたあとの、潜水艦上での対面。

「邪魔すんなって言ったよなあ!?人間の愚かさには呆れてものも言えないが、セリザワに免じて今回は見逃してやる」

私の脳内ではゴジラがこう言っていた。この2度の審判のとき、何かひとつでも対応を誤れば人類はゴジラに見放され、滅びの道を進んでいたのだ。

 

ゴジラは人格的であるか?非人格的であるか?

日本の初期の『ゴジラ』は、ゴジラ自身には必ずしも人類を「裁く」ような意識はなく、結果的に人類の悪行が人類の身にかえるような物語であったことが多いように思う。それは、天に向かって吐いた唾が自身に降ってくるがごとく、自然の摂理であった。

シン・ゴジラ』でも、生命体としての完全性に反してゴジラは非人格的存在であった。原発事故のメタファーとしては、「対話」で何とかできる存在であってはならないということと、いかにも「人類への報復のためにやって来ました」という意思が見えるのはわざとらしすぎて、反感を買う恐れがあるのだろう。

一方、本作(レジェンダリー・ピクチャーズ)のゴジラは、かなり高等な知能を持つ生物である。攻撃されたことへの直接的なヘイト(憎悪)のみならず、守るべきものに背中から撃たれることに対する恨みがましい気持ちも持ち合わせている。本能的にギドラを敵視しているというレベルではなく、ギドラを野放しにしておけば地球がどうなってしまうのかについても完全に理解した上でギドラと戦っている。

本作では『シン・ゴジラ』とは逆に、人類が意思を通じあわせることができる対象であるということが重要だったのだろう。

 

ゴジラは人類にとっての何か?

ゴジラは怪獣の「王」とも呼ばれ、生物としての完全性から「神」とも呼ばれる。政府は「ゴジラを人間のペットにする」と発言したし、それに対し芹沢博士は「人間がゴジラのペットなのだ」と発言した。しかし芹沢博士は最期にゴジラを「友」と呼んだ。

芹沢の「友」とは、芹沢個人がゴジラの友でありたいという意思表示なのか、人類とゴジラが友でありますようにという願いなのか、さてはて。

 

モスラについて】

・最初に登場する怪獣として

もっとも人類に友好的で、話のわかる怪獣が本作で最初に登場する怪獣であることは、とても良い。視聴者にとっても、ゴジラやギドラと対面する前の心の準備ができる。

ただまあ、モスラの卵といえば鳥類のような硬い殻でできていると思っていたので、ぐにぐに伸縮するゴムボールのような球体から何かが生まれようとするシーン、私は「え、どの怪獣が出てくるの?」と真剣に悩んだよね。

 

モスラと心を通わす者

日本版でのモスラの理解者といえば「小美人」であるが、本作には小美人はいない。

本作のモスラと最初に心を通わせたのがエマとマディソン、2人の女性であるというのは、「小美人」を意識しているのか。さすがに無理があるか。

 

・怪獣の女王

モスラは怪獣たちの女王だと呼称されている。怪獣を産み育てる母体という意味ではなさそうなので、王たるゴジラの横に立つ者ということか。

しかし、モスラがギドラに殺される直前、ゴジラに振りかけた鱗粉がゴジラを再生・強化したかのような描写があるので、多種族に対するBuffを持っているのだろうか(私は平成モスラシリーズをまだ見ていないので、その辺りの設定が既存のものなのかわからない)。与える存在、施す存在としてのモスラ

 

モスラかわいい

私は虫全般が嫌いなのだが、モスラは可愛い。昭和のゴジラシリーズに登場するモスラでも可愛い。

 

ラドンについて】

ラドンの出現場所が火山

ラドンが火山から目覚めるのは原作リスペクトで良い。

 

ラドンはコウモリの怪獣?

ラドンは設定上は翼竜の怪獣である(プテ「ラ」ノ「ドン」)。

しかし、本作のラドンには色々な神話・寓話的イメージが付与されているように思える。

まず、ラドンが体の一部に炎をまとっている姿は火の鳥(フェニックス)のようだ、というのは多くの人が直感するところであろう。

一方、現地の伝承で「炎の悪魔」と呼ばれているという設定は、例えば『指輪物語』のバルログを彷彿とさせる(あれも皮膜の翼を持っている)。フェニックスは地域(というか宗派)によっては悪魔扱いされているので、フェニックスかつ悪魔というのも矛盾はしない。

ただ、私は、本作のラドンは徹底的に小物として描かれている点に注目したい。復活直後は戦闘機中隊を全滅させて絶好調だが、一撃でギドラに敗北するとギドラに与し、ゴジラ側のモスラと戦うもののモスラにも負けた上に、最終的にゴジラが怪獣王として君臨すると平伏してゴジラに許しを乞うという情けなさ。

その様子から私が想像するのは、「コウモリ」である。イソップ物語の『卑怯なこうもり』や、ことわざ「鳥なき里のこうもり」など、伝承におけるこうもりは上位のものがいない時は尊大に威張りちらし、勢力争いに際しては双方に良い顔をして容易に寝返る生き汚なさのシンボルとして描かれる。

ラドンファンというのがどのくらい居るのかわからないが、もしいるのなら、本作の情けないラドンというのが、だからこそ可愛いのかどうか知りたいところ。

とはいえ、昭和のラドンは特撮という制約ゆえに空中高速機動戦闘なんてできなかった。今回、戦闘機を圧倒するような空中パフォーマンスができたことはラドンの幸せなところだったのではないか。きりもみ飛行による翼撃とかイカしてる。

 

【ギドラについて】

・南極で目覚める者

ゴジラバミューダ海域で、モスラは中国の洞窟で、ラドンはメキシコの火山で、ギドラは南極の地中で目覚める。

「氷の中で眠っていた悪が目覚める」というだけなら類似作品は数多あると思われる(『デビルマン』とか)。

しかし、太古に宇宙から飛来した巨大生物、支配者の資格を持つ者、日本発祥のアメリカ映画、という要素を含めていくと『トランスフォーマー』のメガトロンを意識しているのではないか?とか、私は思ってしまう。メガトロンが眠っていたのは北極だけども。

 

※調べたところ、「南極で目覚める宇宙生物」は『遊星からの物体X』が元ネタなのだという。グロテスクホラーは苦手なのだが、物体Xも見てみなければならないか。

 

・ギドラのモチーフ

本作の設定では、ギドラは大昔から幾度も人類を恐怖に陥れていて、神話などに残る竜/ドラゴンの伝承は「あまりにも恐ろしすぎて直接的には記すことのできないギドラの姿が、わざと形を変えて残されたもの」なのだという。つまり、あらゆる竜のイメージのアーキタイプであるということができる。

竜の伝承について調べる時、欧米人であろうマークが「邪悪な竜を倒すドラゴンスレイヤーとか何かないのか?」と問うのに対し、中国系の研究者であるアイリーンが「東洋では、竜は邪悪ではなく神聖なものよ」的なことを言うのだが、このあたりはどう解釈したものか。説明はまさしくその通りであるが、肝心のギドラは(首が長いのは東洋的でありながら)性質は邪悪なドラゴンそのものである。

それとも、ゴジラ=恐竜=竜という意味で、ゴジラ擁護を含意していたのだろうか。

 

ちなみに、怪獣を「人智を超えたもの」として扱うなら、自然災害のメタファーとして捉えることもできる。

1体が綺麗に1種類の災害を表しているとは到底言えないものの、ギドラはハリケーンを操り、電撃(引力光線ではない)を吐く怪獣となっており、まさに恐ろしき自然災害の化身であるとも言える。

 

・なぜギドラが悪なのか?

「怪獣は皆殺しにすべき」という主張は平等で明快である一方、「ゴジラと協力してギドラを倒すべき」という主張は、「なぜギドラだけを倒すのか」について理屈が必要となる。ゴジラは人間を攻撃しないから……というのでは、それは「今、偶然」の話でしかなく、理屈としては薄弱である。

それについて、本作では「ギドラは太古に宇宙からやってきた地球外生命体であり、地球の生態系に含まれないので共存が不可能」という理由づけがなされている。(日本のゴジラでも、ギドラは金星の怪獣である)要するに、湖に放たれたブラックバスのようなものか。特定外来生物。駆除対象。

つまり、モナークは「地球に暮らす全ての生き物」と連帯すべきだという姿勢で、敵味方の線引きは地球外か、地球内かである。

現実世界ではナショナリズムが台頭し、国や民族レベルでまとまるのが精一杯で、地球という単位で団結することが夢のまた夢である。故に一見、地球生物の連帯という主張は理想的に見える。

しかし一方で、出身という変更不可能な属性によって排除する対象を選ぶという点ではナショナリズムと同じ構図であり……いや、「ギドラまで受け入れる方法を考えよ」なんて、それこそ頭の中お花畑の理想論なのだが。

インデペンデンス・デイ』では、宇宙人を歓迎しようとする一部の市民がまっさきに殺されていた。『E.T』のような個人間で心を通わすレベルではなく、宇宙人の生存権を認める映画というのはあるのだろうか?『地球が静止する日』?

 

モナークについて】

・リアリティ

シン・ゴジラ』は「もし現実世界にゴジラが出現したら、政府・社会はどのような対応をとるのか」をリアリティたっぷりに描いた作品であった。

一方、本作もまた別の方向でリアリティ溢れる世界を構築していると言える。その「リアリティ」は、個人的には『バイオハザード』とよく似ているなと思う。t-ウィルスと巨大生物。モナークとB.S.A.A。はじめは人類にとって災厄・脅威として現出したものが、ひとたび鎮圧され、世界に周知された後、ある者は再びの災厄を防ぐために組織を作り、ある者は自らの利益のために悪用せんとする。

巨大生物は架空の存在であるけれども、それに関わる人間関係がどこまでも人間くさいのである。そういうリアリティ、好き。

 

モナーク兵への教育はどうなっているのか

ひとつ、納得がいかないのは、ギドラが復活した際にモナークの兵士が小銃を乱射するシーンである。

巨大生物の専門機関であるモナークなら、巨大生物の種類にもよるだろうが、歩兵の持つ小銃ごときは蚊が刺す程度の効果しかないことはわかっているだろう。

「巨大生物には小銃で立ち向かおうとせず、一目散に逃げろ!」という教育を徹底すべきだと思う。

 

・アルゴ

モナークの司令塔たる巨大戦闘機アルゴ。名称の元ネタはギリシア神話の英雄たちの船アルゴー号だろうと思われる。かのヘラクレスも乗船した船であり、ヘラクレスといえばヒュドラ退治である。本作のギドラは、首を一本落とされてもすぐに再生する。ヒュドラの不死性とそっくりである。

そういう意味ではアルゴという名称は人類の乗り物として適切であるようにも思えるが、しかしアルゴはギドラから逃げ回っていただけだし、名前前負けしているよなあ……という。

余談だが、『地球防衛軍』ではフォーリナー(宇宙からの侵略者)の超巨大航空戦艦の名前がアルゴ。人類の船になったりエイリアンの船になったり忙しいな、アルゴ。

 

オキシジェンデストロイヤーについて】

・人類の愚

本作では、人類にとっての希望であるはずのゴジラを瀕死に追い込んでしまう兵器としてオキシジェンデストロイヤー(を弾頭に搭載したミサイル)が登場する。人類の愚の象徴、間違った科学技術の象徴である。

オキシジェンデストロイヤーは、初代『ゴジラ』でゴジラを殺した禁断の兵器である。初代『ゴジラ』では、発明者の芹沢博士が「これの存在が世間に知られれば、必ず軍事転用する悪者が現れる」と言って使用を頑なに拒否したが、最終的に説得され、製造方法を記した資料と、製造方法を知る自分自身を葬る代わりに1度だけ使用した。これはそのまま、世界大戦時に核兵器生物兵器化学兵器の開発に協力してしまった科学者たちの反省を表している。

 

・芹沢は2度死ぬ

本作でオキシジェンデストロイヤーが登場した瞬間、私は「まじかー」と目を見開いてしまった。

私がこの件について若干納得いかないのは、やはり十分な前フリなく唐突に登場したからであろう。「極秘に開発していたものが完成した」と司令は言うものの、誰が開発していたのかも不明、完全なるオリジナルなのかそれともどこかに研究資料が残っていたのかも不明。しかも司令はその直後に「すでにオキシジェンデストロイヤーを搭載したミサイルが発射された、戦闘地域から退避しろ」と言うのである。

初代ではそれを使うべきかどうか、ただそれだけで何十分も尺を使ったのである。「撃っちゃった☆てへ」で済むようなものではない。展開上、ゴジラを瀕死に追いやる必要性があっただけなら、まったく新しい兵器を考案してくれても良かった。

しかしそれでも、オキシジェンデストロイヤーによって瀕死となったゴジラを救うため、芹沢博士が海底へ向かい、自分の命と引き換えにゴジラを回復させるシーンは泣けてしまう。オキシジェンデストロイヤーを使う=その贖罪のために芹沢が死ぬ、というジンクス的なものを作り上げるのは面白いといえば面白い。

ただ、次回作を作る予定なら、次の「博士枠」をどうするのか?

 

【その他】

・スタッフロール

スタッフロールに怪獣の名前が載っていて、キャストでは「Godzilla:himself」となっている。ただのジョークといえばジョークなのだが、怪獣をひとりと見なす姿勢は脱・人間中心主義が貫徹されているようで高評価。

シン・ゴジラ』でも「キャストは328+1」です、という発言があったようだが、あれはゴジラではなくてゴジラモーションキャプチャーの担当者を最後の1人として数えたという話なので、別の話か。

 

・本作の決戦の地

本作の決戦の地はボストン。前作はサンフランシスコ。アメリカの地理には疎いのでなぜボストンなのか、詳しい考察はできないが、西海岸の次は東海岸という極端さは何やらゆかし。

日本のゴジラも東京・大阪・北海道・名古屋……etc、「破壊しがいのある」都市を次々と巡回しているわけで、監督も「せっかくゴジラアメリカに来てくれるなら、ぜひこの街を破壊してもらいたい!」という何かしらの希望があってボストンを選択したのだろう。気になる。

 

・戦闘の制限時間と言えば

決戦時のゴジラは過剰に核エネルギーを注入されたことで、通常よりパワフルになった代わりに12分でメルトダウンを起こし戦闘不能になるらしい。

なぜ12分なのかは私にはわからないが、戦闘時間に制限があると言えば、日本の特撮でもお馴染みだよね。

 

・声優

テロリスト・アランの声の吹き替えが土師孝也。私の中では『Fate』の新宿のアーチャーの声の人。信念ある老獪極まる人物の役がクッソはまり役なんだなあ。

 

・やはり私は脇役が好き

モナークの技術統括官、サム・コールマンが非常にいいキャラをしている。

シリアスな作品で、小さな笑いをくれるキャラクターは大事。巨大生物に有効な手を打てずにいることで社会から批判を浴びているモナークが、解体されないように渉外活動に努める縁の下の力持ちなのに、ほかのメンバーから邪険に扱われているのも笑える。

「次に背が高い」解釈問題

【概要】

5月7日、以下のようなツイートがなされました。

(これを以下、元ツイートと呼ぶことにします)

 

「Cの次に背が高い人は誰か」を問うものですが、付帯されたアンケートの回答は

B:33%

D:50%

どちらにも解釈できる:13%

日本語がおかしい。解釈できない:4%

でありました。

 

何とも不思議なことにDを選ぶ人が多い。

私は答えは「B」であり、「D」を見なすことは全く不可能である、と考える立場です。以下考察。

 

【私がBを選ぶ理由】

さほど複雑なプロセスではありません。

⑴まず、「比較」の文章なので、何らかの属性で5人をソート(並べ替え)します。

⑵何の属性かというと、「背が高い」と明記されているので、高い順に並べ替えます。即ち、E、D、C、B、Aとなります。

⑶最後に「次に」とあるので、Cの1つ後ろにいる「B」を選びます。QED

※後に重要なので「次」の意味を大辞泉で引いておくと

  1. すぐあとに続くこと。また、そのもの。「次の日曜」「次の角を曲がる」

  1. あるものに続く地位。一段低い地位。また、一段劣ること。「主峰の次に位置する」

となっています。

 

 私の思考は↑のツイートと同様です。

 

【Dを選択する人の類型】

私の思考プロセスだけがBへ至る道ではありません(正答への十分条件)。しかし、私の思考プロセス⑴⑵⑶のどこかでやり方を誤ると、Dを選択することになってしまうということは言えるでしょう。

そこで、私の考えとDを選択する人とを比較検討した結果、間違い方は3種類に分類できるのではないかと思いました。

類型①「背が高い」と言われたときに、降順ソートが脳内でできていない

類型②語義や論理ではなく「文脈」(ここではデータが昇順で与えられていることを指す)を重視しすぎている

類型③「の次に」を「よりも」などに勝手に読みかえている

 以下、それぞれ詳しく見ていきます。

 

【類型①「背が高い」と言われたときに、降順ソートが脳内でできていない】

 ①パターンのツイートを例示。

「次」の方向は、「背が高い」と書かれていることにより降順であると示されています。この方は昇順か降順かという発想まではあるのに、「高い」が解釈できていない。

恐らく「高い(higher)」と「高さ(height)」を間違えているのだと思います。

↑のツイートの前半部分は核心をついていますね。「高い」と「高さ」の混同。

ただし、私は「高い」と「高さ」は厳格に区別すべきで、元ツイートには「高い」と書いてあるのだからどちらにも捉えることはできないと思います。

 

「高い」と「高さ」を混同する(どちらと捉えても良いという)人は、例えばテレビの食レポで出演者が「このスイーツおいしいですね!」と感想を言ったとき「おいしい」とは「おいしさ」とも捉えられるから、あのスイーツが高く評価されているとは限らない、とでも言うのでしょうか。

 

【類型②語義や論理ではなく文脈(ここではデータが昇順で与えられていること)を重視しすぎている】

②は、昇順で解釈したままでいるという意味では①と同類です。

しかし、書いてあるものを書いてあるままに、まるで写真のように把握してしまい自身の脳内で組み替えることがない。並べかえるという発想自体がないタイプと言えるのでしょう。

元ツイートに

A

B

C

D

E

と書いてあるので、この並び順しかもう思い描けない。Cの次にいるのはDだと、そういう思考を展開するのが類型②です。

一般に「読解力が足りない」と呼ばれるのはこれでしょう。

 そして、「かしこい」類型②の人は↑のように「コンテクスト(文脈)」の問題だと言います。

それは一理あります。ただ、文脈は明示されている条件を覆すほどの力を持ちません。「背が高い」と明文で書かれた条件を、文脈を理由に無視してはいけません。

 

もし仮に、例えば「この5人の中で、Cの次の人は?」という問いだったとします。

このように「背が高い順にする」という情報が明示されていなければ、その不足する条件を補うために文脈が利用されるでしょう。

ですが、今回は「次に背が高い」と明示されているので、ここに文脈の侵入する余地はありません。

 ↑のツイートのような場合であれば、何の属性でソートするのか情報が与えられていないので、文脈(乗り手が東西南北どちらへ行こうとしているかなど)から想像して補うことになるでしょう。

つまり、↑のツイートの人は、元ツイートの「高い」に当たる言葉が抜け落ちていて、例えとして不適切なことに気づいていないのが誤りと言えるでしょう。

 

実は、元ツイートに対し「文脈による」と書いている人の大半は、実際は文脈=元ツイート内の文章、ではなく、「このツイートを読むより以前から存在する、自分の中のイメージ」=先入観に引きずられているのだと思います。自身の先入観のことを「文脈」と呼んでいる。

何が先入観としてあるのか?については「背の順で並んでいる(身長を比較する際は昇順である)イメージがある」という意見がいくつか見られました。

私は、間違える理由としてはこれに納得しますが、間違えて良い理由であるとは思えません。リテラシー不足の誹りを免れないでしょう。

 

※文脈が明文より優先される数少ない状況として、「執筆者の意図しない言葉が書かれている=誤字・誤植である場合」はあり得るでしょう。

  

【類型③「の次に」を「よりも」などに勝手に読みかえている】

これは②先入観と③勝手な読みかえ の複合技ですね。ここまで来ると見事としか言いようがありません。言葉を変えたら、そりゃ答えも変わります。

元ツイートに自分の知らない、未知の単語が含まれていたのならばともかく、「次に」という頻出単語を勝手に置換することは、文章および執筆者への誠実な態度を欠いています。

無意識に読みかえてしまうことはもちろんあり得ますが、その場合も読みかえに気づいた時点で自身を恥じ、改めるべきでしょう。

改めないどころか、あまつさえ「元の文章が間違えやすい。不備がある」などと執筆者を責めるようなツイートもあって、名状しがたい。

 

※言葉を扱う仕事をしている「執筆者」サイドの人が、間違われやすい文章を書かないよう自省するのは自由です。

 

「次に」を「2番目。劣後するもの」の意味で捉えることができないということは

「次点」という単語の意味を理解できないということですし

例えば上司から「次年度の資料を用意しておいてくれ」と聞かれたときに、2018年の資料を求められているのか、2020年の資料を求められているのかが判断できないということですよね。それはまずくないですか。 

 

【D選択者まとめ】

類型①方向性(高い)と単位(高さ)の区別がつかず、正しくソート(並べ替え)ができないタイプ

類型②文章に書かれている順番でしか捉えられない、自身で並べ直すという発想のないタイプ

類型③理解しづらく感じた単語(次に)を勝手に違う言葉に変えてしまうタイプ

 

類型②がツイッターデマに騙されやすいタイプで、類型③が知識人にクソリプを飛ばして泥沼の議論を展開するタイプでしょうね、多分。

 

【スマートな回答例】

「 読み解くことは可能だが、基準点の設定が不適切」

個人的にはこの回答ができる人が最も知的であると考えます。

類型②の「文脈による」と回答する人に一理あるのはそれ故です。文脈が誤解を生みかねないことを冷静に理解しつつ、Bを選べることが最善。

 

 【専門家の反応】

この問題には言語学者や作家など専門家も反応しています。

本当にDを選んだ専門家はやべーと思います。

 フォロワー数15万人の高名な編集者の方がこのように書いておられるのはただ驚愕するほかありません。このツイートへのある方からのリプライが有用なので引用します。

先述のとおり、私の理解では元ツイートには「背が高い」という方向性が明示されています。やはりこの方も類型①、「高さ」と勘違いしているようです。 

もう1点指摘すると、この方は「n+1」という表現を用いて「次」という言葉に方向性が与えられていない=ニュートラルな語であることを説明しようとしてらっしゃいますが、この「n+1」と書いたときには前提として「n=1、2、3、4、5……」が想定されています。

これは自然数が「昇順」で並べられたものであり、「小さい順」という方向性が付与されているので、「n+1」を想像した時点で誤った先入観に侵されていると言えます。

 

↑フォロワー7万の国語辞典編纂者の反応。

 「私はBで疑いないと思う」としながら、「Dを選ぶ人が多いのはなぜか」を、必要性から論じることができる。専門家とはかくあるべきと思います。

 まあ、Dを選んだ人は日本語の欠陥に気づいているわけではなくて、そういうのは無意識の作用の話であるわけで。それが、Dを選んだ個々人もスマートな選択をしているかのように読めるのがモヤっとはしますが。

 

【最後に】

私は日本語の変化を全て拒否する人間ではありません。

「重複」をちょうふくと読んでもじゅうふくと呼んでも意味が変わらなければ問題ありません(と言って「音」を軽視すると歌や詩の界隈の人に怒られるんですかね)。

ら抜き言葉」なんかは「一音なくても意味通じるんじゃんすげー」という新発見だと思いますし

「議論が煮詰まる」の誤用(本来は熟するの意味であるところが、行き詰まると解されている)はちょっとどうかと思いますけれど、日本語全体に与える影響は小さい。

 

しかし、「次に」の意味が変化してしまったら影響は甚大です。

元ツイートに反応した作家らの幾人かは「読む人がこう読むならそれに合わせよう(ここには「誤解されない書き方をしよう」という意味も含まれます)」と述べています。

今後の出版物はそれでいいのかもしれませんが、「これまで」の出版物はどうするのですか。

「次に」を「劣後・2番」の意味で読めない人を、読めないまま看過してしまったら、その人たちは今までに書かれた「次に」が含まれる文章を正しく読めないということなります。過去へのアクセスができなくなります。

 

もう1つ重要なことは、「Dと回答した人がDと答えた理由はさまざま」であるということです。私は3類型に分けましたが、例えば類型①と類型③の理解の仕方には大きな隔たりがあり、たまたまDを選んだ人が同類に見えているだけなのです。

逆に、Bを選択した人はおおよそ同じ論理・思考をしています(私の観測範囲内では)。

もう一歩踏み込んでいえば、「B派よりもD派が多数派である」こと自体が虚妄でしょう。アンケート選択肢の罠です。

ここから何が言えるかというと、仮に「元ツイートをDと回答する人が多いから、Dが正しいことにしよう!」と日本語を改めたとしても、人々のコミュニケーションが円滑になることはない、ということです。

 いたずらに「多様な解釈」を礼賛することは、少し改めたほうが良いのではないでしょうか。

というか、みんながバラバラな解釈をすることと、1人の人間が多様な解釈をした上で最終的に最も妥当な1つを選び取ることは、別でしょう。それは例えるなら、将棋において一流の棋士が、奇手を数十手思いついた上で、結局定石とされる一手を打つような……そういう多様性は素晴らしい。しかし、将棋教室に集まった初心者が、定石を知らないが故にめちゃくちゃな手を好き勝手に打つような、そういう多様性は矯正されるべきものです。

 

義務教育もうちょっと頑張って。マジで。