空色帝国

ひとまずノンジャンルで。

「次に背が高い」解釈問題

【概要】

5月7日、以下のようなツイートがなされました。

(これを以下、元ツイートと呼ぶことにします)

 

「Cの次に背が高い人は誰か」を問うものですが、付帯されたアンケートの回答は

B:33%

D:50%

どちらにも解釈できる:13%

日本語がおかしい。解釈できない:4%

でありました。

 

何とも不思議なことにDを選ぶ人が多い。

私は答えは「B」であり、「D」を見なすことは全く不可能である、と考える立場です。以下考察。

 

【私がBを選ぶ理由】

さほど複雑なプロセスではありません。

⑴まず、「比較」の文章なので、何らかの属性で5人をソート(並べ替え)します。

⑵何の属性かというと、「背が高い」と明記されているので、高い順に並べ替えます。即ち、E、D、C、B、Aとなります。

⑶最後に「次に」とあるので、Cの1つ後ろにいる「B」を選びます。QED

※後に重要なので「次」の意味を大辞泉で引いておくと

  1. すぐあとに続くこと。また、そのもの。「次の日曜」「次の角を曲がる」

  1. あるものに続く地位。一段低い地位。また、一段劣ること。「主峰の次に位置する」

となっています。

 

 私の思考は↑のツイートと同様です。

 

【Dを選択する人の類型】

私の思考プロセスだけがBへ至る道ではありません(正答への十分条件)。しかし、私の思考プロセス⑴⑵⑶のどこかでやり方を誤ると、Dを選択することになってしまうということは言えるでしょう。

そこで、私の考えとDを選択する人とを比較検討した結果、間違い方は3種類に分類できるのではないかと思いました。

類型①「背が高い」と言われたときに、降順ソートが脳内でできていない

類型②語義や論理ではなく「文脈」(ここではデータが昇順で与えられていることを指す)を重視しすぎている

類型③「の次に」を「よりも」などに勝手に読みかえている

 以下、それぞれ詳しく見ていきます。

 

【類型①「背が高い」と言われたときに、降順ソートが脳内でできていない】

 ①パターンのツイートを例示。

「次」の方向は、「背が高い」と書かれていることにより降順であると示されています。この方は昇順か降順かという発想まではあるのに、「高い」が解釈できていない。

恐らく「高い(higher)」と「高さ(height)」を間違えているのだと思います。

↑のツイートの前半部分は核心をついていますね。「高い」と「高さ」の混同。

ただし、私は「高い」と「高さ」は厳格に区別すべきで、元ツイートには「高い」と書いてあるのだからどちらにも捉えることはできないと思います。

 

「高い」と「高さ」を混同する(どちらと捉えても良いという)人は、例えばテレビの食レポで出演者が「このスイーツおいしいですね!」と感想を言ったとき「おいしい」とは「おいしさ」とも捉えられるから、あのスイーツが高く評価されているとは限らない、とでも言うのでしょうか。

 

【類型②語義や論理ではなく文脈(ここではデータが昇順で与えられていること)を重視しすぎている】

②は、昇順で解釈したままでいるという意味では①と同類です。

しかし、書いてあるものを書いてあるままに、まるで写真のように把握してしまい自身の脳内で組み替えることがない。並べかえるという発想自体がないタイプと言えるのでしょう。

元ツイートに

A

B

C

D

E

と書いてあるので、この並び順しかもう思い描けない。Cの次にいるのはDだと、そういう思考を展開するのが類型②です。

一般に「読解力が足りない」と呼ばれるのはこれでしょう。

 そして、「かしこい」類型②の人は↑のように「コンテクスト(文脈)」の問題だと言います。

それは一理あります。ただ、文脈は明示されている条件を覆すほどの力を持ちません。「背が高い」と明文で書かれた条件を、文脈を理由に無視してはいけません。

 

もし仮に、例えば「この5人の中で、Cの次の人は?」という問いだったとします。

このように「背が高い順にする」という情報が明示されていなければ、その不足する条件を補うために文脈が利用されるでしょう。

ですが、今回は「次に背が高い」と明示されているので、ここに文脈の侵入する余地はありません。

 ↑のツイートのような場合であれば、何の属性でソートするのか情報が与えられていないので、文脈(乗り手が東西南北どちらへ行こうとしているかなど)から想像して補うことになるでしょう。

つまり、↑のツイートの人は、元ツイートの「高い」に当たる言葉が抜け落ちていて、例えとして不適切なことに気づいていないのが誤りと言えるでしょう。

 

実は、元ツイートに対し「文脈による」と書いている人の大半は、実際は文脈=元ツイート内の文章、ではなく、「このツイートを読むより以前から存在する、自分の中のイメージ」=先入観に引きずられているのだと思います。自身の先入観のことを「文脈」と呼んでいる。

何が先入観としてあるのか?については「背の順で並んでいる(身長を比較する際は昇順である)イメージがある」という意見がいくつか見られました。

私は、間違える理由としてはこれに納得しますが、間違えて良い理由であるとは思えません。リテラシー不足の誹りを免れないでしょう。

 

※文脈が明文より優先される数少ない状況として、「執筆者の意図しない言葉が書かれている=誤字・誤植である場合」はあり得るでしょう。

  

【類型③「の次に」を「よりも」などに勝手に読みかえている】

これは②先入観と③勝手な読みかえ の複合技ですね。ここまで来ると見事としか言いようがありません。言葉を変えたら、そりゃ答えも変わります。

元ツイートに自分の知らない、未知の単語が含まれていたのならばともかく、「次に」という頻出単語を勝手に置換することは、文章および執筆者への誠実な態度を欠いています。

無意識に読みかえてしまうことはもちろんあり得ますが、その場合も読みかえに気づいた時点で自身を恥じ、改めるべきでしょう。

改めないどころか、あまつさえ「元の文章が間違えやすい。不備がある」などと執筆者を責めるようなツイートもあって、名状しがたい。

 

※言葉を扱う仕事をしている「執筆者」サイドの人が、間違われやすい文章を書かないよう自省するのは自由です。

 

「次に」を「2番目。劣後するもの」の意味で捉えることができないということは

「次点」という単語の意味を理解できないということですし

例えば上司から「次年度の資料を用意しておいてくれ」と聞かれたときに、2018年の資料を求められているのか、2020年の資料を求められているのかが判断できないということですよね。それはまずくないですか。 

 

【D選択者まとめ】

類型①方向性(高い)と単位(高さ)の区別がつかず、正しくソート(並べ替え)ができないタイプ

類型②文章に書かれている順番でしか捉えられない、自身で並べ直すという発想のないタイプ

類型③理解しづらく感じた単語(次に)を勝手に違う言葉に変えてしまうタイプ

 

類型②がツイッターデマに騙されやすいタイプで、類型③が知識人にクソリプを飛ばして泥沼の議論を展開するタイプでしょうね、多分。

 

【スマートな回答例】

「 読み解くことは可能だが、基準点の設定が不適切」

個人的にはこの回答ができる人が最も知的であると考えます。

類型②の「文脈による」と回答する人に一理あるのはそれ故です。文脈が誤解を生みかねないことを冷静に理解しつつ、Bを選べることが最善。

 

 【専門家の反応】

この問題には言語学者や作家など専門家も反応しています。

本当にDを選んだ専門家はやべーと思います。

 フォロワー数15万人の高名な編集者の方がこのように書いておられるのはただ驚愕するほかありません。このツイートへのある方からのリプライが有用なので引用します。

先述のとおり、私の理解では元ツイートには「背が高い」という方向性が明示されています。やはりこの方も類型①、「高さ」と勘違いしているようです。 

もう1点指摘すると、この方は「n+1」という表現を用いて「次」という言葉に方向性が与えられていない=ニュートラルな語であることを説明しようとしてらっしゃいますが、この「n+1」と書いたときには前提として「n=1、2、3、4、5……」が想定されています。

これは自然数が「昇順」で並べられたものであり、「小さい順」という方向性が付与されているので、「n+1」を想像した時点で誤った先入観に侵されていると言えます。

 

↑フォロワー7万の国語辞典編纂者の反応。

 「私はBで疑いないと思う」としながら、「Dを選ぶ人が多いのはなぜか」を、必要性から論じることができる。専門家とはかくあるべきと思います。

 まあ、Dを選んだ人は日本語の欠陥に気づいているわけではなくて、そういうのは無意識の作用の話であるわけで。それが、Dを選んだ個々人もスマートな選択をしているかのように読めるのがモヤっとはしますが。

 

【最後に】

私は日本語の変化を全て拒否する人間ではありません。

「重複」をちょうふくと読んでもじゅうふくと呼んでも意味が変わらなければ問題ありません(と言って「音」を軽視すると歌や詩の界隈の人に怒られるんですかね)。

ら抜き言葉」なんかは「一音なくても意味通じるんじゃんすげー」という新発見だと思いますし

「議論が煮詰まる」の誤用(本来は熟するの意味であるところが、行き詰まると解されている)はちょっとどうかと思いますけれど、日本語全体に与える影響は小さい。

 

しかし、「次に」の意味が変化してしまったら影響は甚大です。

元ツイートに反応した作家らの幾人かは「読む人がこう読むならそれに合わせよう(ここには「誤解されない書き方をしよう」という意味も含まれます)」と述べています。

今後の出版物はそれでいいのかもしれませんが、「これまで」の出版物はどうするのですか。

「次に」を「劣後・2番」の意味で読めない人を、読めないまま看過してしまったら、その人たちは今までに書かれた「次に」が含まれる文章を正しく読めないということなります。過去へのアクセスができなくなります。

 

もう1つ重要なことは、「Dと回答した人がDと答えた理由はさまざま」であるということです。私は3類型に分けましたが、例えば類型①と類型③の理解の仕方には大きな隔たりがあり、たまたまDを選んだ人が同類に見えているだけなのです。

逆に、Bを選択した人はおおよそ同じ論理・思考をしています(私の観測範囲内では)。

もう一歩踏み込んでいえば、「B派よりもD派が多数派である」こと自体が虚妄でしょう。アンケート選択肢の罠です。

ここから何が言えるかというと、仮に「元ツイートをDと回答する人が多いから、Dが正しいことにしよう!」と日本語を改めたとしても、人々のコミュニケーションが円滑になることはない、ということです。

 いたずらに「多様な解釈」を礼賛することは、少し改めたほうが良いのではないでしょうか。

というか、みんながバラバラな解釈をすることと、1人の人間が多様な解釈をした上で最終的に最も妥当な1つを選び取ることは、別でしょう。それは例えるなら、将棋において一流の棋士が、奇手を数十手思いついた上で、結局定石とされる一手を打つような……そういう多様性は素晴らしい。しかし、将棋教室に集まった初心者が、定石を知らないが故にめちゃくちゃな手を好き勝手に打つような、そういう多様性は矯正されるべきものです。

 

義務教育もうちょっと頑張って。マジで。